江戸時代の地図って、今と比べると随分と適当で不正確に感じられます。
では、そんな地図しか無い中で、どの様にして藩の境目などを決めていたのでしょうか?
また、現在の地図に迫る伊能忠敬が中心となり作った全国地図は、江戸時代後期の1821年に完成しました。なので、それ以前はほとんどが不正確な地図だったことになります。
そんな曖昧な地図しか無い江戸時代の藩などの区切り方を、今回は3つのポイントに分けてご紹介します。
これを知れば、江戸時代の人々の領地の考え方や分かりやすくなりますよ。
さらに、この考え方に実は現代の我々に通じるところもあるんです!
地形で区切る
藩の境となる地形の代表例が山と川になります。目に見えるはっきりとした境界です。
これだと地図がなくても、川の向こうからは別の藩という風に目に見えて理解することができます♪
また、山や川の向こう側にしょっちゅう行くことはありませんし、普段の生活圏としても切れていました。そんな事もあって、余計に境としての機能を果たすことができたのでしょう。
他にも、大きな木や岩などが目印になりました。これは人工物に比べ、変わらないのが大きな理由です。
しかし、こういった自然のものを境にすることに全く問題がなかったわけではありません!
例えば、川は氾濫すれば形が変わってしまいますし、境界になった山自体はどちら側かはっきりしません。なので、川が氾濫したあとに争いになることもありました。
こういった点が自然のものを境界にする上で、大きな問題点になります…
村ごとに区切る
藩の境といった線を引くような方法とは違いますが、非常に重要なのが村ごとに所属を決める方法です!
つまり、自分たちはどこそこの藩に所属していて、近くの隣村は別の藩に所属していたりします。
結局、何が大事かというと、村人の方はどこに年貢を納めればよいのか、藩主の方はどれくらい藩の石高、つまり収入があるのかを知れればよかったのです。
これは地図の上でどう線を引くかよりも、より本質的な問題であると言えるでしょう♪
また、どれくらい藩の生産力があるかが重要とされたのは、石高で藩の凄さを表現する所に現れています。
例えば、よく加賀百万石と聞きませんか?一方で江戸時代に、最も領地の広い藩がどこか知っていますか?私も加賀百万石はピンときても、領地の広い藩はあまりピンときません…
そんな風に領地の広さより、その藩の生産力の方が意識され重要とされたのです。
なので、この方法では境がはっきりと決められませんが、藩にとってはより重要でした。
ただし、新田開発などで村の形が変わるなど、境目をはっきりさせなければいけない場合も多々あります。
話し合いで決める
江戸時代でも、やはり藩同士の領地問題というのは起こっていました。むしろ、これは藩主にとって重要な仕事の1つでもありました。
ですが、すぐに戦になるかというとそうではありません。なぜなら、幕府の目というものがあるからです。
そのため、できうる限り話し合いで収めようとしたり、小競り合いの内に片付けようとしました。
また、幕府が仲裁に乗り出すこともありました。逆に、幕府に解決を願い出た百姓もいます。
そうして幕府の力で、ここまではそっちの藩、ここからはあっちの藩という風に裁定が下されたのです!
しかし、これは最終手段で、まずは当事者である藩同士で話し合いをするのが普通でした。
そして、この時に藩境を表すものとして、松が植えられたり、石が置かれたりしました♪
ただ、初期の頃は松が植えられていたのですが、抜かれたり枯れたりするので徐々に石が主流になります…
しかも自然石のままだったのが、時代を経るごとに文字が彫られたりして、より立派になっていきました。これは、藩の領地を示し、威嚇するためでもあったのです。
現在の境界線の問題とは?
国境問題というと海外の問題ばかりで、日本にはほとんど関係がないような気がします。はっきり言って、島国の日本でむしろどう国境線を引くんだという感じです。
しかし、国と国の境界線に限らないとすれば、例えば一票の格差問題は境界線の問題とも言えます。
我々の代表者を選ぶといったときの、「我々」とは一体どこからどこまでの人を含むのでしょうか?
こういったことを考えた時に、単に数を合わせればよいだけではないと私は考えます。
今回ご紹介したように藩の境界で大切にされたのは、藩の収入に重要な生産力の問題でした。
領民にとっては、いかに生活の糧となる土地を確保するかで必死だったわけです!
このように、境界を引くには数値的にきれいに分けられればいいというわけではありません。何が本質的に大事なのかを見極め、そこを守りながら納得のいく落とし所を探ることが重要なのです。