江戸時代の平均寿命は、今よりもうんと短いものでした…
では、そんなに短かかった死因は一体何だったのでしょうか?
そこには、単に何か重大な死因があるだけでなく、平均寿命から見える根本的な問題点があるのです。
今回は、そんな根本的な問題点と江戸時代の主な死因をご紹介します。
さらに、それらを通して見えてくる現在と江戸時代の人生観の違いは必見です!
平均寿命とその意味
平均寿命と言うと、自分の年齢を引いて余命を計算するなんてことしていませんか?
実はそれ、思っきり平均寿命の意味を間違えてしまっているんです!
平均寿命の正しい意味は、0歳時の平均余命のことを指します。平均余命とは、ある年齢の人が後どれくらい生きられるかを国勢調査による生命表を元に計算した期待値です。
また期待値は、確率を元に平均しどれ程の値が起こりうるか示すもので、簡単に言うと期待できる値です。なお。この数字は決して主観的な憶測ではなく、しっかりと確率論で計算されています。
なので、平均余命を求める際にはかなり複雑な計算がされているのです!
例えば、40歳の方と100歳の方が亡くなれば平均寿命は70歳みたいな計算ではありません…
したがって、自分の余命が知りたければ、自分の年齢の平均余命を見る必要があります♪
ちなみに、半数がそれまでに亡くなりもう半数は生きていると期待される、要は生存確率50%になる年齢のことを寿命中位数と呼び、日本では寿命中位数のほうが平均寿命よりも少し長いです。
七五三の重み
江戸時代の平均寿命は、現代の戸籍制度のような詳しい統計資料がないため正確に求められません…
しかし、最近の研究によると江戸時代の平均寿命は30歳から40歳くらいだったとされます。なぜこんなにも短いのかと言うと、そこには乳幼児死亡率が関わっているのです!
つまり、乳児の間はおよそ20%から30%の死亡率で、10歳を前にして亡くなる子供は合計で50%以上いたと考えられています。
なので、その辺りの年齢を超えた人はもっと長生きで、80歳とか90歳くらいまで生きる人もいました♪
また、この死亡率の高さには公衆衛生、医療の未発達、疫病、貧困など様々な問題が絡み合っています。
そして、それほどまでに子供が多く亡くなったからこそ、子供の成長を願う行事が広まっていったのです。
例えば、七五三は3歳、5歳、7歳と段階的に祝い、そこにここまで育ってくれたという喜びが現れています。あと、子供の長寿を願う千歳飴もくばられますよね。
3つの死を招く要因
江戸時代の死因に関わる要素には、大きく分けて3つ挙げられます。
- 感染症:天然痘、麻疹など
- 公衆衛生の問題:コレラの蔓延など
- 栄養不足:脚気など
まず、医療が未発達だっため感染症の流行を止めることが出来ません。その上、公衆衛生に問題があるためコレラなど病気の温床になってしまいました。
さらに、栄養不足によって脚気などの直接的な病気になるだけでなく、免疫力を低下してしまい感染症にもかかりやすかったと考えられます。
つまり、直接の死因は感染症が多かったと考えられますが、それを取り巻く状況にも問題があったのです…
長寿な人もいた!
江戸時代は、乳幼児の時期を生き残ればそれなりに長生きをする人もいました。
むしろ、先程あげたような江戸時代における公衆衛生や医療の問題を考えれば、そんな風に長生きした人は自身の体の丈夫さによる所が大きかったのではと考えられます。
そのせいなのか分かりませんが、江戸時代には年齢を重ねても活躍した人が結構います♪
例えば伊能忠敬は55歳から測量を始め全国を飛び回り、日本地図作成に取り組みました。享年は73歳です。
他にも、浮世絵師として有名な葛飾北斎は最後まで絵師として活躍し、90歳でなくなりました。
さらに、解体新書で知られる杉田玄白は83歳、水戸黄門のモデルである水戸光圀は73歳と長寿になります。
この様に、江戸時代にも長生きの人は沢山いて、バリバリに活躍をしている人もいたのです!
また、町人だと50歳前後で隠居し、悠々自適な隠居生活をおくる人もいました。ただ、江戸の役人の場合は老衰による隠居だと70歳まで認められませんでした…
平均寿命と人生観
江戸時代の平均寿命は30歳から40歳と短いものでした。
しかし、長生きな人も結構いて、役人になると正に生涯現役で働いていました。一方で、町人は50歳前後で隠居し、悠々自適な生活をおくる人もいたのです。
なので、理不尽なこと抗えないことも多かったのですが、その分必死に生きていたと感じられます♪
また、そのような事情もあって七五三などの行事が生まれていったのです!
このように、文化を考える際は、その時代状況を調べ、そこに生きた人が何を考えてどうしたかったのかに思いを馳せるとより深く味わうことが出来ます。